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1980年8月19日に起こった新宿バス放火事件では、発車待ちのバスが放火され、6名が死亡、14名が重軽傷を負った。

この事件の犯人、丸山博文は無期懲役の判決を受けたが、心神耗弱が考慮された結果である。

裁判では精神状態が焦点となり、著名な教授たちの鑑定によって精神病ではないとされつつも、被害妄想やアルコールの影響が指摘された。

特に、事件の生存者の中には、肉体的・精神的苦痛を抱える被害者が多く、彼らの感情は裁判に反映されなかった。

丸山はその後、自殺し、生きて償う義務を果たさなかったことに対し、被害者の一人は強い憤りを表明している。

この事件は、無差別殺人として日本の歴史の中でも特に記憶に残るものであり、何が「命」の意味を持つのかという問いが今も残っている。

(要約)

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新宿駅バス放火事件 現場で献花をする人々 

 

 今から45年前、1980年の8月19日夜に起きた「新宿バス放火事件」。新宿駅西口で、発車待ちのバスが放火され、死者6名、重軽傷者14名を出した、日本の無差別殺人としては最悪の惨劇のひとつである。殺人罪などで起訴されたのは丸山博文(38=当時)。死者の数から鑑みて、死刑判決を求める世論が高まった。しかし、4年後に出た一審判決では無期懲役、そしてその2年後、高裁で同判決が確定した。刑法39条には「心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する」とある。彼は事件の7年前、若い女性の部屋に侵入して警察に逮捕されたが、その際、統合失調症(当時の病名は、精神分裂病)と診断され、起訴を免れていた過去があったのである。 

 

 月刊誌「新潮45」では2007年、ノンフィクション作家・福田ますみ氏の筆により、この事件の全容を当時の資料などに基づいて詳らかにしている。事件の凄惨な被害、そして丸山の生い立ちから犯行に至るまでを描いた【前編】に続き、【後編】では、丸山が死刑を回避できた理由、そして、その後の丸山の人生を詳述する。 

 

 【前後編の後編】 

 【福田ますみ/ノンフィクション作家】 

 (以下は、「新潮45」2007年2月号記事の再録です) 

 

 *** 

 

 起訴後の公判廷での審理は、丸山の精神状態に集中した。 

 

 裁判所は、上智大学教授(当時)の福島章氏と東大教授(当時)の逸見武光氏に鑑定を依頼、その結果は、両教授とも「精神病ではない」と一致したが、「平均より若干劣る知能に被害妄想、酒による酔いが重なっての犯行」(福島教授)、「生い立ちなどから、被害妄想や幻覚などに支配され、酒を飲んだ結果、妄想の抑制がきかなくなって引き起こした複雑酩酊による行為」(逸見教授)と鑑定した。 

 

 この鑑定を受けて、昭和59年4月、東京地裁は、丸山に無期懲役の判決を下す。被告は犯行当時、是非善悪を弁識し、それに従って行動する能力が甚だしく低下した心神耗弱の状態にあったと判断されたのである。検察は控訴したが、東京高裁も昭和61年8月、1審を支持して無期懲役が確定した。 

 

 判決の瞬間、丸山は、何を誤解したのか、「罪にならないんですね」と呟き、傍聴席に向かって「ごめんなさい」と言いながら土下座したという。だが、その後に面会した弁護人によると、うまくやったと言わんばかりに笑っていたそうである。 

 

 

 現在なら、犯行の悪質さ、被害者の人数、被害者感情から考えて死刑判決が下ることはほぼ間違いない。 

 

 実際、全身ヤケドを負いながらかろうじて脱出した21歳の女性は、 

 

「肉体的にも精神的にも、一切がひっくり返ってしまう苦悩を丸山に味わわせてやりたい」 

 

 と怒りを露わにする。 

 

 無理もない。彼女は、繰り返し植皮手術を受けたにもかかわらず、その顔や腕には板状のケロイドが刻まれ、事件前の、若く健康な肌を取り戻すことはついにできなかったのだ。 

 

 街を歩くときには必ずマスクで顔を隠す。しかし夏場には、「気持ち悪い」などと、心ない言葉を囁かれて辛い思いをすることが少なくない。絶望のあまり、「あのとき、いっそ死んだ方が幸せだったのではないか」とさえ考えると言う。 

 

 しかし、こうした彼女の被害者感情が裁判に反映されることはなかった。 

 

 当時は、心神耗弱を認めた減軽判決が乱発されており、丸山もその流れに乗って運良く生き延びたわけである。 

 

 だが一口に被害者感情と言っても、こちらも全身の80%に及ぶヤケドを負いながら、命をとりとめた後、丸山と、面会や手紙で交流を重ねた被害者がいたのである。 

 

 杉原美津子さん。事件当時36歳だった彼女は辛い不倫の渦中にあった。だから、ふいに火炎が迫ってきた時、「これで死ねる」と思い咄嗟に逃げるのを躊躇したため、大ヤケドを負ってしまったのだ。 

 

 そうした複雑な事情も手伝ってか、丸山に宛ててこんな手紙を書く。 

 

「私は一度だって、あなたのことをうらんだりにくんだりしてきませんでした。あなたをさばく気持ちも全くありません。どうか、もう一度、生きてみてください。あなたにとって、いちばんたいせつなものを見つけて、勇気を出して生きてみてください」 

 

 獄中の丸山はおそらく面食らっただろうが、次のような返事を書いた。 

 

「おてがみありがとうございました 五五年八月十九日はほんとにすまないことおしました。じぶんは、こうかいしています。バスにおきゃくさんが のっているとはおもわなかったし めが はっきりみえなくてほんとに すまないことおしました 大ぜいなくなり おわびのしよが ございません ほんとにすまない 丸山」 

 

 被害者の寛大な心に触れて、真摯な反省の気持ちを綴ったのかもしれないが、「バスにおきゃくさんが のっているとはおもわなかったし」という行は、【前編】で述べたように、やはり自己弁護としか思えない。 

 

 

 なお、これは全くの偶然だが、プロカメラマンをしていた杉原さんの兄が現場を通りかかり、バス炎上の瞬間をカメラに収めていた。兄は、急を聞いて病院に駆けつけるまで、まさか妹が事件に巻き込まれていたとは思いもしなかった。 

 

 読売新聞は、兄が撮影した写真とともに、奇しくも、この乗客の中に実の妹がいたその巡り合わせを大々的に報じた。 

 

 兄はその後、プロカメラマンの職を辞した。 

 

 杉原さんは後に、『生きてみたい、もう一度』(文藝春秋)と題した手記を出版し、反響を呼んだ。 

 

 言語に絶するつらい治療、10度の手術。2度の死線を彷徨い、ようやく命を取りとめた後もケロイドが全身に残り、もはや健康体には戻れないが、それでも丸山を憎む気持ちにはなれないこと。 

 

 さらに、11ヶ月を超える入院の後、不倫相手の男性といっしょになったが、後遺症による体調の悪化、男性が抱えていた借金の返済などさまざまな心労が重なり、自殺を決行しようとしたこと。しかしなんとか思い止まって、「それでもやはり生きたい」という心境に到達するまでの魂の遍歴が綴られている。 

 

 この手記を元にした同名の映画が、昭和60年、恩地日出夫監督、桃井かおり主演で公開された。 

 

 なお、無期懲役の刑に服していた丸山は、平成9年10月、千葉刑務所で首吊り自殺を遂げた。良心の呵責に耐えかねたのか、それとも、長期拘留に耐えられなかったからなのか、理由は定かではない。 

 

 *** 

 

 以上が事件と、その後の顛末である。 

 

 獄中での11年間、丸山はどのような生活を送っていたのか。自らも服役経験のある作家の故・見沢知廉氏は千葉刑務所在監時代、丸山と生活を共にしたことがあり、著書『囚人狂時代』の中でこう記している。 

 

〈丸山は皆から可愛がられていた。無口なのでホラも吹かないし、人の悪口も言わない。(中略)その丸山が、時々あらん限りの声で叫ぶことがあった。皆が寝静まった深夜、突然、悲鳴をあげて布団の上に立ち上がるのだ。どんな夢に怯えていたのか。それを丸山が言葉にしたことは一度もない〉 

 

 丸山が死亡したことが公表されたのは、自殺の半年以上も後のことだった。報道によれば、その日、丸山は昼食後、「メガネを忘れた」と言って、食堂から作業場に向かい、5分経っても戻らなかった。職員が探しにいったところ、作業場の空気配管にビニールひもをかけ、首を吊っていたという。遺書はなかった。 

 

 これを受けて、前述の杉原さんは「FOCUS」(1998年7月22日号)の取材にこう答えている。 

 

〈生きて償う義務があったのに。強い憤りを覚えました〉 

 

 身勝手極まりない理由で6人を焼死させ、自らの命すらもあっさりと絶つ。丸山にとって果たして「命」とは何だったのか。死刑から無期懲役刑への減軽に、一体、どんな意味があったのか。事件から45年経った今でも、その問いは残されたままだ。 

 

 【前編】では、事件の凄惨な被害、そして丸山の生い立ちから犯行に至るまでを詳述している。 

 

福田ますみ(ふくだ・ますみ) 

1956(昭和31)年横浜市生まれ。立教大学社会学部卒。専門誌、編集プロダクション勤務を経て、フリーに。犯罪、ロシアなどをテーマに取材、執筆活動を行っている。『でっちあげ』で第六回新潮ドキュメント賞を受賞。他の著書に『スターリン 家族の肖像』『暗殺国家ロシア』『モンスターマザー』などがある。 

 

デイリー新潮編集部 

 

新潮社 

 

 

 
 

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