( 326163 ) 2025/09/21 06:45:54 0 00 最近なにかとSNS上で話題になる「まいばす」。アンチが多い印象だが、「強さ」ゆえの現象であり、過去に他チェーンも経験してきたことでもある(写真:yu_photo/PIXTA)
都心を歩いていると、やけに赤い看板が目に入る。そこには、ポップ体の大きな文字でこう書かれている。
「まいばすけっと」。関東圏の方はよく知っているだろう。イオン系列のミニスーパーである。
店舗数は、すでに1200店舗を超えており、そのすべてが関東近郊圏にある。そのエリアに住む人間にとっては「欠かせない存在」である一方、SNSでは「嫌い」「つまらない」という声も根強い。「まいばすけっとは、都民への罰」といった過激な(? )投稿も注目を集め、ミーム的な広がりを見せている。
「働いてる人もいるし、ちょっと可哀想だな……」と思って今の状況を見ている人もいると思われるが、チェーンストア研究家を名乗る身としては、物申したいことがいくつかある。
というのも、まいばすけっとがここまで嫌われるのは「ビジネス的な強さ」ゆえだから。そして、こうして嫌悪が集まるのは、まいばすけっとが企業として成長していくときの「通過儀礼」だと思うからだ。
ということで本稿ではチェーンストア研究家の視点から、「まいばすが嫌われる理由」について、なるだけ中立的に解説していきたい。
■「栄養食」のような店舗空間が嫌われている?
まいばすけっとが嫌われる理由を考えると、その根底にはまいばすけっとが進める「効率化」があると思われる。
例えば、まいばすけっとへの不満の一つとして「品揃えがどこも均一で面白くない」という声がある。ここはイオングループのスーパーマーケットで、商品コストを下げるためにプライベートブランドである「トップバリュ」がメインとして置かれている。
大きなスーパーは、同じ商品種でも、さまざまなメーカーのものが並べておいてあることが多い。けれど、まいばすの場合、それがPBを中心とした「必要最小限」の品揃えになっている。
また、効率化を進めるために店舗への人員配置を最小限にしていることもあり、店舗内に店員さんはあまりいない。レジも多くがセルフレジである。まいばすけっとはコンビニに似ているが、コンビニが提供するコピー機やトイレの貸し出しも行っていない。いわば、「商品」「レジ」という、スーパーに最低限必要な機能だけがある空間で、食事でいえば栄養を取る目的に特化した「栄養食」に近いといえるのだ。
よく言えば「効率的」、悪く言えば「無機質」な空間で、これを指して、「都民への罰」という人がいるのだろう(なお、これ以外にも惣菜や弁当の味への批判も多いが、これは店舗ごと、あるいは購入タイミングによっても異なる話なので、詳しくは触れない)。
■都市空間の中に浮かぶポップ体が「違和感」を生む?
一方で、多かれ少なかれチェーンというのは、どこか「無機質」で「効率的」なものである。それ以上にまいばすけっとで顕著なのは、その急激な増殖の仕方である。
まいばすけっとは首都圏でドミナント展開(ある地域に集中的に店舗を展開して、物流効率や運営効率を上げる手法)を行っていて、高密度に展開している。その数はスーパーチェーンとしては日本一で、全国でもっとも多いチェーンが関東に密集しているのだ。
地域によっては、コンビニと同じぐらいか、それ以上にまいばすけっとを見ることも増えた。コンビニの居抜きで入居する例も増えている。そして、その店舗の増え方は急激で、2011年に分社化されてから、わずか14年ほどで店舗数は約5倍に増えた。
だから、まいばすけっとを直接利用していなくても、日常風景の中でふっと「まいばすけっと」が浮上してくる。突然、生活圏に侵入してくる……と言うと言い方がきついのだが、中にはそういうふうに受け取る消費者がいてもおかしくはない。
しかも、そのとき私たちの視界を支配するのは、あの「ポップ体」のロゴである。
ポップ体は、フォントとしては見やすくて視認性は高いが、都市空間の中では意表を突くデザインである。だからこそ看板に採用されたのだろうが、それも含めてまいばすけっとは、人々から戸惑いをもって受け止められているのではないか。いわば、日常の中の「違和感」だ。
この辺りは、初期のドンキと似たような雰囲気も感じる。もっとも、ドンキとまいばすけっとは、店舗空間の作り方では正反対である。ドンキが「個店主義」を掲げて、それぞれのドンキで違う商品ラインナップを持っているのに対し、まいばすは徹底して均質化されている。
また、ドンキが装飾などを凝ってPOPなども大量に貼って「買い物の楽しさ」を演出しているのに対し、まいばすけっとはそうした装飾は一切やらない。
けれど、ドンキが初期、その奇抜な店舗で世間から「ゲテモノ」扱いされたように、まいばすけっともまた、どこか生活の中の「違和感」として浮かび上がっている。
方向性は違うが、知らないチェーンが突然現れたときの典型的な反応として「嫌悪」がある。よく知らないのに、徐々に生活を侵食するものに対して、人はどこか拒否反応を覚えるものなのである。
■「嫌悪」の裏にある「生活への浸透」
興味深いのは、今書いてきたまいばすけっとが嫌われる特徴は、そのまま、まいばすけっとが躍進している理由でもあるということだ。
商品種を極限まで絞り、スーパー並みの品目を狭い店内で展開する。狭くても出店ができるから、コンビニの跡地のような小さな土地でも積極的に出店することが可能になる。そして、都心部を中心としたドミナント出店を達成して効率のよい物流網を作り、程々の安さを実現する。それが、まいばすけっとの戦略である。
そして、その戦略はビジネスとして首都圏近郊の生活に最適化しており、成功をおさめている。特に関東郊外に住んでおり、免許を返納した高齢者などにとっては、車なしでも行ける範囲にあるその存在は、非常に貴重である。
こう考えると、むしろ、まいばすけっとが経営的に成功して私たちの生活に浸透してきたからこそ、それに対する「嫌悪」ともいえる反応が出てきたのかもしれない。「まいばすが嫌われている」という言説の裏には、それが我々の生活に欠かせないものになっているという事実が張り付いている。
■「嫌悪」は小売店の通過儀礼だ
先ほど、まいばすけっととドンキに対する反応が似ている、という話をしたが、こうしたチェーンに対する「嫌悪」は、歴史を鑑みれば、多少の違いはあれど、あらゆる場面で起こってきたことである。
例えば、1960年代から爆発的にその数を増した初期のイトーヨーカドーやダイエーのような総合スーパーマーケット、さらに2000年代に増殖したイオンモールなどもこうした「批判」の対象になってきた。
いずれも消費者に便利な選択肢を提供する一方、景観の問題や商品品質の問題、また地元共同体を希薄にさせた、などといった観点で批判されてきた。ただ、それも、そもそもこれらの小売店が我々の生活に根付いていたからこその批判だったともいえる。
その意味では、こうした「嫌悪」は、あるチェーンなり小売店が全国に広がるときに通らざるを得ない「通過儀礼」のようなものだといえる。思えば、ドンキだって「嫌悪」の時期を抜け、いまや日本の小売企業のトップをひた走る存在になった。「嫌悪」をうまく抜ければ「浸透」が次に来る。
まいばすけっとに話を戻すなら、問題は、まいばすけっとがこの「通過儀礼」を経たあと、どのように消費者の心を繋ぎ止めておくことができるのか、である。
ダイエーやイトーヨーカドーは確かに便利だったが、時代の流れの中でショッピングモールの便利さに負けた。ダイエーは経営破綻しているし、イトーヨーカドーが大量に閉店したことは記憶に新しい。消費者の要望に十分に応え続けることができなかったのである。そんなショッピングモールも、そのいくつかが廃墟に近い「デッドモール」になる例が増えてきた。「嫌悪」から「浸透」に至ったあとも、時代の変化、消費者の変化を読み続けなければ萎んでしまうのは、当然のことである。
まいばすけっとの例を見ていると、少なからず、その製品品質やサービスなどの「内在的要因」で消費者から嫌われている側面がある。一朝一夕にそれが解決されることは難しいだろうが、そのままだったら、せっかく「通過儀礼」を通っても沈んでいくだけだ。
いま、まいばすは絶賛「通過儀礼中」である。では、その後はどうなるか? まいばすが「浸透」することはあるのか。その後の展開も含めて静観していきたい。
谷頭 和希 :都市ジャーナリスト・チェーンストア研究家
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